福岡市は、那珂川を境に、福岡藩黒田氏の武家町“福岡”と古来からの国際貿易港・商人町の“博多”として永らく栄えてきましたが、明治初年に統合され福岡(当初は福博)となりました。博多地区は今や大企業支社が集積するビジネス街となっています。博多の語源については、“土地博く人・物産多し”説・羽形(大鳥が羽を広げた地形)説・泊潟(外洋船停泊の潟)説等の諸説があります。博多地区にも老舗の飲食店・和洋菓子店・食品店などが数多く残っています。
江戸時代には存在が確認できる老舗和菓子店 如水庵
博多駅から徒歩3分ほどの場所にある 如水庵。言い伝えによると、天正年間(1573~1591・安土桃山時代)に、初代・庄右衛門氏が東部作出町(現、博多区博多駅前1丁目)でお菓子作りを始めたことで、その歴史が始まったとされています。ただしこの歴史には不確かな部分があり、公正取引委員会からの通達もあり現在は創業年不明としています。ただし、ウェブサイトの歴史ページによると、1845年(弘化2年)にお菓子の注文を受けた際の木型が残っているとのことですので、このページでは江戸時代には存在が確認できる老舗店としてます。
という如水庵さんからは、筑紫もちをお取り寄せしました。ちなみに、筑紫は「つくし」と読みます。ただし地元では「ちくし」とも発音するため、如水庵さんは「ちくしもち」も正式な呼び名としているそうです。面白いですね。
箱を開けるとこんな感じです。有名どころのお菓子で例えると、山梨名物の信玄餅と近しいお菓子です。
一つ取り出した図がこちら。小風呂敷に包まれた餅菓子なのです。
開けるとこんな感じです。きな粉がたっぷりかかったお餅に、黒蜜をかけて食べます。ハズレのないコンビネーションですよね。
(黒蜜をかけた絵を撮り忘れるという痛恨のミス…!)
中にはパンフレットも入っていました。こちらによると1830年には榮松堂という屋号でお菓子を本業にされていたとのことです。
こちらがパンフレットの中面です。きなこに使う大豆は国内で0.5%しかとれないタマホマレを使っているそうですよ。
筑紫もちは、現会長の森さんが幼い頃祖母に作ってもらったきな粉餅をヒントに、1977年(昭和52年)に発売されたお菓子なのだそう。博多出身の友達によると、彼は東京に来るまで信玄餅を食べたことがなく、これ系のお餅といえば筑紫もちだと思っていたそう。
似たお菓子は日本中にあるのですけれど、信玄餅が昭和40年代、元祖とされる東京の赤坂青野さんの赤坂もちは1920年代に発売されています。日本各地に似たお菓子が点在しているって面白いですよね。
ちなみに私は、桔梗信玄餅・信玄餅(金精軒)・筑紫もちを同時に買って食べ比べたことがあるのですが、筑紫もちさんが一番上品で甘さ控えめでした。最も甘かったのが金精軒さんの信玄餅で、その中間にあるのが桔梗信玄餅といった感じで。この辺りの違いも食べ比べてみるとわかるので楽しいですね。
※小風呂敷包系お菓子については、山梨イベントの際に調べてこちらにまとめています。ご興味あればどうぞ。
↓楽天でも購入できますよ。
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———如水庵 基本情報———-
〇創業年 江戸時代には存在 (天正年間創業説あり)
〇営業時間
・平日 9:00-19:00
・土・日・祝日 9:30-18:00
※元旦のみ定休
〇住所
福岡県福岡市博多区博多駅前2丁目19-29
(公式サイト)⇒如水庵 公式オンラインショップ |福岡の和菓子
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